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誰もが学ぶための仕組みづくりと工夫

 2025年10月25日(土)、オリンピック記念青少年総合センターにて、みんなの大学校の引地学長が、「誰もが学ぶための仕組みづくりと工夫」というテーマでシンポジストとして登壇しました。
 引地の専門はメディアです。シンポジウムでは、学ぶ自分を活かすための環境として、メディアの役割について語りました。メディアは、自分ひとりではできないことを可能にしてくれる道具であり、学ぶ自分を広げるための大切な手段だと述べました。
 この考え方は、福祉の世界にも通じます。できることとできないことの間には、誰かの手助けによって「できるようになること」があります。発達の分野では「最近接領域」とも呼ばれますが、そこに足場をかけることこそがケアの本質だという発想です。
 もちろん、それを使って何かを強要するのは本来の姿ではありません。しかし、自分ができなかったことが少しずつできるようになり、社会に参加しやすくなる。そして学びが社会への道につながっていく。そこにこそ、生涯学習の意味があるのだと感じます。

 従来の学びは、知識を与えることを中心にして、確実性を求めてきた面がありました。
 これに対し、障がいのある人の生涯学習では、学ぶ機会そのものを与えることを重視し、可能性を追い求めていくことが大切なのではないか。引地はそう提言して、語りを締めくくりました。

 当日の資料として、引地の著書『わたしたちのケアメディア』(晶文社)が紹介されました。
 朝日新聞のウェブ連載「じんぶん堂」に掲載された寄稿文「わたしたち、と言ってしまった責任」についても、この書籍については触れられました。この文章は、新刊『わたしたちのケアメディア』の刊行に合わせて書かれたものです。

 記事の中で引地は、「わたしたち」という言葉の持つ両義性を考察しています。
 この言葉は一見、みんなを包み込むように響きますが、同時に「誰を含み、誰を含まないのか」を曖昧にしてしまう側面もあると振り返っています。だからこそ、「わたしたち」と口にするときには、その言葉に込めた願いや責任を意識する必要があると語っています。
 みんなの大学校では、障がいや生きづらさを抱える人が、自分の思いや表現を社会とつなげていく場づくりを行っています。その背景には、引地が提案する「ケアメディア」という考え方があります。それは、発信を通して誰かを思いやり、分断ではなくつながりを生み出すメディアのあり方を探るものです。
 記事を読むと、ことばを発するという何気ない行為の中にも、相手を思う小さなケアが宿ることに気づかされます。
 みんなの大学校の活動も、まさにそうした「ことばのケア」から生まれているのかもしれません。

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